御祭神
主祭神
武水別大神
(たけみずわけのおおかみ)
相殿神
誉田別命
(ほんだわけのみこと)
相殿神
息長足比売命
(おきながたらしひめのみこと)
相殿神
比咩大神
(ひめおおかみ)
御由緒
当社の創建に関しては、その年代は明らかではありませんが、社伝によれば、武水別大神は人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四~一五六)の御代に御鎮斎と伝えられております。
その後安和年間(九六八~九七〇)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、相殿に奉斎されました。
当社は延喜式(平安初期の年中儀式や制度などを記した書物)に名神大社として記載されており、三代実録(延喜元年に編纂された歴史書)によると貞観二年(八六〇)に従五位下、同八年に従二位の神階を受け、同九年に官社に列したと有り、上古よりの大社であったことを窺い知ることが出来ます。
戦国時代から江戸時代にかけてはこの地方随一の八幡宮として諸武将の尊崇が篤く、慶安元年(一六四八)には幕府から朱印地二百石を与えられました。明治時代に入ると郷社に列せられ、明治四十一年に県社に昇格、現在は神社本庁別表神社に指定されております。
御神徳
主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。
誉田別命は八幡大神と称えられる応神天皇のことで、古来文武両面のお徳をもって世に崇められ、国家鎮護・国威宣揚のために、農地を開拓し、学問を勧め、当時の中国大陸から学者や職工を招いて民業を指導し、国力の充実発展と人間生活の向上進展に尽くされた大徳のある神であります。
息長足比売命は応神天皇の御母君、神功皇后のことで、その昔仲哀天皇の御意志を継いで皇軍を三韓(古代朝鮮北東部、新羅、百済、高句麗)までも進められ、任那(古代朝鮮南部)との親交を図り、御稜威を遠く海外にまでのべられた神であります。
比咩大神は前の神々と御神縁が深く、御婦徳・御威徳共に兼ね備えた「田心姫」「湍津姫」「市杵嶋姫」の三女神の総称であり、国家鎮護、航海・交通安全の守護神として仰がれております。
御社殿
社殿を始め境内の建物類は火災等により、その都度再建が成されて来ましたが、現在の建物はその殆どが天保十三年の火災以降に建てられたものです。
本殿
本殿は諏訪出身の工匠立川和四郎(二代・富昌)によって嘉永三年(一八五〇)に完成しました。建坪三十一坪余と規模が広大な上に、内外の彫刻は繊細を極め、見事と言う他はありません。当初、柿(こけら)葺きの屋根は年と共に千木・鰹木が取り付けられました。
拝殿
拝殿は立川和四郎の後見の下に、水内の峰村弥五郎の手により安政三年(一八五六)に完成。瓦葺の屋根はのちに昭和五十七年本殿と同様に銅板で葺き替えられました。
額殿
長年の風雪により損傷が進み、地震等による倒壊が懸念されておりましたが、崇敬者の皆さまのご援助のもと、平成25年11月7日~平成26年8月15日の改修工事にて、無事新しく生まれ変わりました。
額殿内には、当社の古い扁額等や、改修工事に多大なるご援助を頂いた「松田トシ」さんゆかりの品々が展示されております。
観覧希望の際は直接社務所まで、お声をお掛け下さい。
高良社
数多く有る境内建物の内、天保の火災から免れた摂社高良社は室町後期の建築とされ、昭和五十年県宝の指定を受け、平成五年解体復元工事を行い、創建当時の姿に修復され翌六年には保存のための覆屋も竣工しました。
神輿休所
高良社に隣接する神輿休所は江戸後期の建造と推測されていますが、神仏混淆時代の神宮寺の行事に関わる唯一の貴重な建物です。
境内社
高良社(摂社)
神武天皇社
疱瘡社
酒造租社
八剱社
宿称社
駒形社
荒神社
十二神社天神社
子安社
御獄社(石祠)
金刀比羅社(石祠)
東照宮(石祠)
妙義社(石祠)
塞ノ神(石祠)
道祖神(石祠)
水神祠(石祠)
山ノ神(石祠)
秋葉社(石祠)
鹿島社(石祠)